人間もどきの日常

目標もなく意味もなく、ただそこに在る

「他人」を理由にしている時点で自分磨きは失敗するという話

新社会人として成り立ての頃、自分磨きなるものに

とにかく躍起になっていた時期がある。

 

英会話スクールに通いながら、流暢な英語を話す自分を夢想していた。

 

コミュニケーション向上の自己啓発セミナーにも参加し、

「一流のビジネスマン」を目指す自分に陶酔していた。 

 

典型的な「意識高い系」である。

痛々しくて目も当てられない。

 

そんな自分磨き(笑)がどんな結末を迎えたか。

 

言うまでもなく全て失敗である。

 

不真面目だったかと振り返ればそうでもない。

課題は真面目に取り組んでいたし、グループワークなんかは

積極的に発言し主体的に参加していたと思う。

 

でも結果的に英会話スクールからは逃げ出すようにフェードアウトし、

セミナーは何も結び付かずに回数だけ消化してしまった。

 

今なら何でうまくいかなかったのか痛いぐらいによくわかる。

 

「自分」が何もなかったのだ。

 

当時の自分はこんな思考で固まっていた。

 

他人に見下されたらどうしよう。

蔑まされたり、攻撃されたらどうしよう。

 

常に他人を異常なまでに意識し、そして怯えていた。

 

その反動が追い立てられるような自分磨き(笑)である。

何か能力を得れば、人から攻撃されずに済むと考えたんだろうか。

「自分がどうしたいのか」という部分が空っぽなのに。

 

具体的な目標も将来的な展望もない。

私は学びの場を「ファッション」か何かだと勘違いしていたんだろう。

ファッションだから着飾ればそれで終わり。

見てくれだけ参加した気になってそれで満足。

最初からうまくいくはずなんてなかったのだ。

 

当時の私が本当にすべきことは、他人の顔色を伺うことなんかじゃなかった。

心の声に耳を澄まして「自分のしたいこと」を探すことだったのだ。

 

「他人」がどうこうよりまず「自分」を見つめる。

そんな当たり前なことを理解するのに払った授業料は高すぎたみたいだ。

ホントとんだお笑い草である。

 

 

今はもう中身のない自分磨きなんかしていない。

いやむしろそれ以前に人間であることすら半ば辞めている。

状況だけ考えれば当時より悪化しているだけだろう。

 

まあ、もうそれはそれでいいか。

 

人間を辞めるのが「自分が本当にしたいこと」ならば、

今度こそ研鑽(?)に励むのもいいのかもしれない。